みなさんこんにちは。だるま豆腐店です。岩手県奥州市江刺区の男石というところで豆腐屋をやっております。
■はじめに
   で、「だるま」の名前の由来ですが、じつは近所に神社がありまして、そこに祀られているのが何故かだるま。そんなわけで、昔からこのあたり一体を「だるま」と呼んでいたそうです。そこで先代が「だるまにある豆腐屋だからだるま豆腐店にしよう!」というシンプルな考えで命名したとか。
 とはいえ、だるまは昔から「七転び八起き」の例もあるので、それにならい、どんな苦境になっても最後は必ず立ち直ることが出来ることを念頭に置いてがんばっております。
 実は七回以上転んでいるような気もしているのですが・・・。
達磨(だるま)の歴史

だるまの名前の出てくる一番古い古文書は
1. 寛永19年(1642)御検地帳に屋敷名として片岡村だるま町、だるま屋敷と書き上げられております。
2. 宝暦13年5月(1763)片岡村風土書上帳に
  一、堂但 達磨尊を祭り数馬様御下中屋敷、達磨と申所候、往古よ有之候処、別当等無御座候 尤も棟札等無御座候
3. 安永2年11月(1773)風土書上帳に
  片岡村の内伊達藤徳様御居舘要害地・・・家中小路・・・だるま小路とあり。
一、仏閣四の内 一、だるま、だるま尊
但 伊達藤徳家中 高野市五郎屋敷内相立祭日等無御座候
4. 安永3年2月(1774)
  江刺郡片岡村増沢村餅田村扱に無之分書出に達磨小路とある
一、仏閣三十の中 達磨小路に
一、達磨 右は家中高野市五郎屋敷の中に有之わらぶきささやかなる堂にて西向き祭り日も無御座候
一、坂 六の中 達磨坂ー何れも家中周り二御座候
達磨石 正面の図 但筋の通り高く石の後に巻き通申候
5. 明治2年(1869)風土記
  一、達磨小路(御家中小路)注 伊達数馬様の御居舘要害の地内にあり
一、達磨ー達磨 但別当伊達数馬様家中、岩淵弁作屋敷の内に相建、祭日無御座候
 
以上「江刺市史」より原文通り引用
一、達磨堂(江刺市史二巻通史編、近世p363)
  江刺にはただ一つ片岡村にある、禅宗の祖、達磨大使をまつる、大師が洛陽当方の嵩山、少林寺で面壁9年の座禅をくみ心の本来清浄である理を悟った。
これより日本では手足のない達磨、七転八起の諺などが生まれた。大和国には聖徳太子と絡んで真言宗の達磨寺がある。
その流れを汲んでの達磨堂と思われる。
一、達磨堂(江刺市史社寺旧跡篇より)
  江刺市男石一丁目に社堂一間四面。本尊、達磨大師。祭日、5月5日。管理者=男石一丁目達磨部落。由緒=不明。
創建は太子堂と同じ頃と言われるが明らかではない。
注1.太子堂(根岸)=旧法性寺跡にあり聖徳太子祭る。嘉慶元年8月17日・・・施主片岡殿から神領が与えられ神事が行われたとも伝えたれている。
照真魂神社
  由緒が不明であるが明治二年神仏分離令が出され廃寺廃仏が行われ廃仏き釈となり達磨堂もその令にふれて神社名を照真魂神社と改名し従来通り達磨様を祭り祭日は3月5日とされたと思われる。
達摩の歴史(その2)

1. 達摩様の由来
 達摩は普通一般には達摩と書くがここでは古くから摩の字を用いている。
 しかしこれは梵語のDharmaを音訳したものであるから、どちらの文字を充ててもさしつかえない。

 達摩様は片岡村の地名に因んで出来たものと思います。日本書記に聖徳太子が飢人にお会いなされお歌を詠んだことを記してあるが、これが河内の国片岡の里の達摩道の創立起因であるということです。
我が江刺郡にも好事家が居て京、大和地方の名所を敢えて新地に名付けた事があったのです。
 片岡村の東西に、太子堂と達摩堂を建てて片岡の里に擬したのもその一つでしょう。太子堂には嘉慶3年(1387)の棟札があったというから鎌倉時代の末頃には太子堂があったのだろうと思います。そして達摩堂も同時代には創建されたものと推定されます。

2. 今「下だるま」部落にある「お達摩様」は昔、片岡の太子様。沖の白山様と同じに河内の片岡から遷したものと伝えられ、元は猪狩定治屋敷(良知)猪狩敬之助屋敷(菊助)との間の上方(ウワッカタ)の高台にお祭りしてあったのです。それでここに「だるま」の地名が生まれたのです。
  ところが場所は高台であったので拝みに来るのにも難儀なためか参詣人も余り来なかったというのです。そうして居る間にお堂は多年風雨にさらされ壊れ放題になっていたとのことです。ある時「達摩様」のお姿がお堂の外に転げ出し下の部落の高野旦方屋敷まで行って漸く止まったということです、高野旦方を始め、この部落に住む旦方達一同は「お達摩様が今までの場所を嫌って転げ出てきたのだベンから、ここさ祀ることにスンベエ、そうすれば御達摩様も喜ぶベエジャ」ということになり新しくお堂を建ててお姿を安置し毎年旧暦10月5日にお祭りをすることに決めたとのことです。お達摩様の転げ落ちてきた崖の所を「だるまおとし」と言ったものです。
 高野旦方屋敷界隈を新たに「しただるま」と、元の達摩部落を「上だるま」と呼ぶようになりました、今では「だるま」と言えば、「下達摩」部落のことのように思われ何時しか「上達摩」の地名が消えて今日に至ったのです。
 明治の御一新以後は「しただるま」の旦方達も扶持離れになって食うに困り、お達摩様を置き放しにして北海道、その他に移住してしまいました。その後旦方屋敷の跡地にきて住み着いたのが胆沢衆といわれる百姓達です。
 お達摩様の祭祀も自然に旦方達の手から新来の胆沢衆の手に移ることになりました。
 大正の初年頃になると旧10月5日の祭日では、寒くて困るとか言って、(旧3月5日)に変更されました。
 その頃世間では胆沢衆の勝手な振る舞いを評して「物事を知らぬ者ほど恐ろしいものはない、今度は胆沢衆の手でお達摩様の祭日迄転ばされた、たまげたものだ、この次は何を転ばされるやら」と言ったものです。
 私も六原生まれだから胆沢衆のことを余り言えた義理ではないがこれは確かに軽はずみであったと思います。
 祭日を自分の思いや都合のみで簡単に改められるものでは無い筈です。=「註」=私ー高橋梵仙様のことです

3. 達摩堂の事は「封内風土記」の「宝暦書上」「安永書上」にも記載があります。

4. 胆沢衆によって勝手に変更された「お達摩様の祭日」は今では新暦の「5月5日」に行われているとの事でありました。

5. 私は今から30余年前「達摩堂に参拝のついでに享和2年(1802)10月5日の棟札の文を写し取って置きました。今も残って居るか、どうか判りませんので次に全文を掲げて参考に供します。
   大旦那大梵天王 享和二壬戌星 供養導師大越家龍王院体淳  
   奉造営達摩尊者安置堂一宇氏子繁盛家門栄盛転禍為福処  
   大願主帝釈天王 十月五日 十方助衆息災延命 大工 幸作
 仝 善七
 仝 利三郎
 仝 丈吉
 この棟札にある供養導師の「竜王院」は銭井町愛宕堂の別当でチョギレ(町切)本宮家の裏、愛宕下の屋敷、先頃迄荻田酒屋の酒こが(酒樽)置場になっているところ、羽黒派修験であります。 明治以後神主になって小笠原氏を称し第一代を全体を第二代を 徳(セントク)と言ったが二代で直系子孫が断絶し養子は神主をやめて水沢に移りました。

6. ダルマBodhidharma菩提達摩は禅宗の初祖で南天じく香至国王の第三王子と云われ中国の梁の普通元年1520(一説、大通り元年1527)広州に着き武帝に召された僧といわれ大通2年1528(一説、大同2年1536)10月5日寂、嵩州の熊耳山に葬ると伝えられています。
  なお、ダルマは普通達磨と書くが、ここでは古くから達摩と書く慣わしになっています。
高橋梵仙著 「足軽聞書」より原文通り引用
■ともちゃん豆腐
   店の商品に「ともちゃん豆腐」というのがあります。
 実は私も家内も名前に「とも」がついておりまして、俗にいう「だるまのともちゃん」と呼ばれ、電話では「ともちゃんいる?」ということになり、ややこしいといえばややこしい、でも逆手にとれば楽かな?と思い命名した訳です。
 味の方はというと、これがまた豆腐らしい味というか、薄味というか、いわゆる豆腐のもつ「味」つまりスタンダードでシンプルな味を追求した・・・豆腐なわけです。一度ご賞味あれ。

 ・・・といいますか、豆腐というやつは非常にデリケートな味わいを持っておりまして、調味料を施さないと普通は食さない、さりとて風味が変わると食べていただけない、非常に難しいモノです。